30歳からのハロー中国(チャイナ)

30代からでも始まっちゃう半海外移住、中国生活

半端な高学歴が現地採用での海外就職にトライして失敗していくのはどうしてか、我が身を振り返ってみた

27歳の僕は大門のオフィスに一人でいた。

- Hi! xxx? Can you hear me?
- Yes, I can hear you clearly. Thanks for taking your valuable time for me today.

複合機の上にノートPCを載せて、開いたSkypeの先にいるのは丸顔の欧米人女性だった。始まるのは転職のための面接で、上司は出張に出ており、折り合いの悪い40代後半の女性社員はたまたまこの日に休みを取ることになっていた。オフィスにがっつり拘束され、休みも取れないこの会社で、デイタイムに面接を受けるならこの機会は逃せなかった。

面接は無事終わり、すぐに採用となった。迷わず辞表も出した。2月の中旬のはっきりしない天気の日だったと思う。

いわゆる受験秀才君にもいろいろなタイプがいるが、みんな多かれ少なかれ一旦馬力は鍛えられている。とっさの判断でどこかから抜け出て、どこかに逃げ込むのは得意な動作だ。あとのことはあとで考えればいい―――

だが、海を越えての生活はそう甘くはない。

泥縄では何ともならない

少なくとも僕は泥縄を縫いきれなかった。

そこから5年近く経ったいま、うまく継続できなかった理由をいくつか挙げることができる。あのとき上海に渡ったばかりの自分に過剰だったものは、

  1. 日本企業、日本という国からきっぱり縁を切ってしまおうする批判的態度
  2. ハードスキルのみに頼っていこうとするかたくなな姿勢
  3. 英語だけで何とかなるだろうと高を括る慢心(非英語圏のみ)

「不足」はあまりにも数限りなさすぎるので「過剰」というカウンター形式で書いた。それでも他にたくさんあるが、数を絞って挙げるとこんなものだろうと思う。

日本企業、日本という国からきっぱり縁を切ってしまおうする批判的態度

海外で現地採用の身分で働こうとするやつらの相当数は、程度の差はあるだろうが、「日本と自分は合わない」という気持ちを海外就労のモチベーションとして持っているはずだ。最近はネット言論空間が大変クリーンになってきている気がするのであまりこの手のネガティブな話は見かけなくなったが、この根本の部分は大きくは変わらないのではないかと思う。敵を恨む気持ちが続く間、それはとても強いモチベーションになるし、さらにありがたいことに海外現地採用の採用プロセスはいまはどこも短期決戦型で、結果として行きの切符を手に入れることは非常にたやすい。カタルシスが手軽に得られやすい構造ともいえる。

日本流(と当時思っていたもの)から完全に逃げ切りたいと考えていたので、僕は「日本国外で働き、住む」だけではなくて「日本という要素が業務で絡まない仕事をする」というところまで考えていた。面接担当者がイタリア人女性だったのはそのせいだ。結果、あるヨーロッパ系の企業で働くことになった。

首尾よくその狙いは果たされて、僕は上海という近場の外国でほぼ完全に日本から逃げ切ることができた。「日本が見えない環境に身を置いて、これまでのくびきから自由になる力を得るのだ」という当初の願いの通り、理想の環境を作ることができたのだ。だが、ほどなくこれが身の丈に合わない難易度設定だったことに気付く。そもそも仕事の基礎力も頼みの英語力もどちらの高くない状況で、慣れない生活環境で、見知らぬ業界の未経験業務をこなさなければならないのだ。生活のすべてが仕事に覆われた。そのほかのことをする気力なんて全く残っていなかった。仕事が終わればそそくさと一人でアパートに引き上げ、一人で近所のウイグル料理屋で面をすする。多国籍な同僚たちと仕事上がりにCheers!と盛り上がる余力は全くなかった。日本濃度を無理に下げ過ぎたことで、ほころびが生まれてきていた。

ハードスキルのみに頼っていこうとするかたくなな姿勢

「日本が見えない環境に身を置いて、これまでのくびきから自由になる力を得るのだ」

渡航前、「自由になる力」が何を意味しているかは「あとのことはあとで考えればいい、そのうち分かるはず」とあまり深く考えなかった。学んだあとに何が手に入るか、学ぶまえに想像がつくようなことは大したことではない、というようなことを内田樹か誰かが言っていて、それを深く考えない免罪符にしていたように思う。その句自体は今でも正しいと思っているが、最初の上海での経験を振り返ってみると「学んだあとに手に入れたもの」は、あまりにも当初想像していたものからはかけ離れた、何か別のものだった。それは「問答無用で他人を黙らせ、好き勝手に一人で生きていくための硬くて強いスキル」とは割と逆の方向を向いているようだ、ということに少し時間がたってから気が付いた。

渡航前は、居心地の悪い世界から逃げ切るためのカギは「誰にも物言わせないようなハードスキル」だと思っていた。それを手に入れるため、そして居心地の悪さから距離を取るために海外に出る。そこには、「ハードスキルを手に入れるまで、国外でどうやって耐えきるの」という視点が欠けている。どこかで「外国人ということでモラトリアムが与えられ、その間にしっかり準備することが許される」というような想定をしていたのかもしれない。残念だが実際はそうではない。さなぎが許される時期は存在せず、いきなり飛ばなければならない。旅行者ではないのだから、外国人てあることは何のエクスキューズにもならない。

そしてサラリーマンである以上、仕事上関係ある他人とは積極的で、できれば友好的な態度で接触し、関係を継続することが求められる、というかそれが出来ないと自分の首がしまる。分かっていても、それが出来ない。ソフトスキルというか「姿勢」がなっていない上に、言葉の壁も加わるのだから当然である。その事実を無視して「ハードスキルが手に入るはずだ」と話すのは滑稽というほかないが、海外に出て(今まさに出ようとして)気持ち高ぶるあまり、自分には何が欠けているのかを取り違えてしまう、状況を単純化し、うまくいかない原因をどこか一か所に集中して転嫁してしまう、ということがあるのかもしれない。

英語だけで何とかなるだろうと高を括る慢心

当初漠然とイメージしていた「自由になる力」には外国語力が含まれていた。外国語には愛憎半ばする複雑な気持ちがある。英語は中学高校から嫌いではなかったが、一方で帰国子女の存在を目の当たりにして、奴らには逆立ちしてもかなわないということを深く悟っていた。英語以外の外国語についても、これまた大学院時代に「華麗なるアカデミアのエリートたち」の頭脳と活躍をこれでもかと見せつけられ、いい経験といえばおさまりがいいが、トラウマに近い何かを持つに至った。つまらないと感じることはそもそも視界に入ってこないし、面白いと感じることの世界では僕はいつもFailureだった。

しかしながら、目立たずとも曲りなりに”角落”で頑張ってきた甲斐がなかったわけではない。採用シーンにフィールドを移せば精神と時の部屋から出たばかりのピッコロみたいなものである。TOEICを初めて受けたときは「こんな子供だましで社会人は英語の能力を測っているのか」と驚くと同時に、実務でちゃんと使っているところはこのスコアなんか見てないだろうな、となんだかむなしく思った。

ともあれ、仕事では英語を使う機会にもそこそこは恵まれた。業務であろうがなかろうが、外国語を使うのは面白い。楽しく何かをこなすことは自信につながるし、ここがトラップだが、自信を与えてくれるなにかは「とても大切で価値あるもの」に思えてくる。大切なものが少数精鋭で一所集中しているほど、価値判断に強いレバレッジがかかる(依るべきものが少ないほど依存度が煮詰まり高まる)。

当時の僕は「英語を何とかできれば自由になるはず」と多分に思い込んでいた。そして短絡にも「ヨーロッパ系の企業であれば仮に場所がアジアでも英語で仕事をするだろう」「仕事で英語漬けになっているうちに英語力は伸びるだろう」「日常生活も英語があればなんとかなるだろう」と信じ切って日本を出た。

実際はそうではない。中国では英語はあまり役に立たない。特に日常生活レベルでは「全く」役に立たない。例えば家探しの時や「ガス代を支払い忘れたとき」など、日常的なシーンでヘノツッパリにもならない。日常生活がうまく進められないことは意外と大きなストレスになる。くだらない届け出と支払いのために、貴重な土日が吹き飛んでしまい、休めない。勉強どころではない。現実的にも理想とのギャップという意味でもどんどんストレスがたまり、参っていく。

なぜ中国だったのか

英語がよりどころであるならば英語圏に行くのが筋なのだが、僕は中国を選んだ。この選択は既に上に書いた「本物にはかなわない」という原体験の影響を強く受けたものだ。働く先として英語圏を選べるのは「本物の英語エリート」か「自分のイマイチな英語を受け止めつつ、屈託なく夢と上を目指して頑張る性格のいい人」のどちらかだと思う。それに加えて英語圏は移住、就業障壁が高い。ビザは下りづらくて、物価が高い。求人状況はコンペティティブである。まがいものが行く場所としてはかなり眩しい。

幸か不幸か、学生時代に超基礎レベルまでの中国語は習得済みだった。中国は物価も安いし、いろいろ雑そうだし、まがいものの英語でも目立たずにごまかせそうな気がした。旅行で何度も行ったことがあったのも背中を押した。近いからダメになってもすぐ帰ってこれそうという現実的で逃げ腰なプラス要素もあった。

振り返ってみると、僕の来し方には逆張り思考の癖が見え隠れしている。卒論のお題も大学院の専門領域もあえて大変マイナーなものを選んだ。いっときは珍しがられていい思いができるが、先行者がいないだけに自分で主体的に掘り下げる必要があり、入り口から先につなげづらい。そしてなにより、どんなマイナーな分野にも必ず本物がいるのだ。中国もそのパターンだった。ちょうどそのころ、国一合格から外務省に入った学部時代の同級生が中国入りしていたのだった。僕らの学部は東大ではなく、まして文学部なので彼のような人は珍しかったが、学部時代の数少ない友人の一人としてたまに連絡を取っていたのだ。彼は外務省のトレーニングで英語だけでなく中国語もマスターしていたし、東大院と米国留学時代の人脈も豊富にあった。既に外交官としての威厳に満ちているように感じられた。対する僕は負け切ることを恐れ避け続けて、昔取りそこねた杵柄を諦めきれずに上海の西側をふらふらしていた。水ぼらしいありさま。そのやりとりがあった翌日、通勤のために降りていた地下鉄9号線の階段で滑って、足首をひどくねんざした。

ようやく「一度何かに負け切らない限り、どこかに逃げおおせることはできないのかもしれない」と思い始めたのは、一度目の上海生活をあきらめる少し前だった。28歳になっていた。